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映画「聲の形」感想。石田と西宮によりフォーカスが絞られていた

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友人から譲り受けたチケットを使い、映画館に足を運んで参りました。原作読了済みですので、劇場版ならではの特筆点についてお話しして参ります。

あらすじ

“退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。
ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。
彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。
しかし、硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。
やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。
“ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪れる。
これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語――。

流石の京アニクオリティ


原作の雰囲気を崩さないながらも、一目で京アニだと判別できる作画クオリティは流石。

たとえば、石田が聴かないようにしていた周囲の声に耳を傾け、見ないようにしていた他人の顔を見ようと決意することで、他人の顔を覆っていたペケマークが外れていく場面の演出はアニメーションならでは。素晴らしいカタルシスでした。

石田・西宮ふたりの物語と化している

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私がもっとも大きな変更点だと感じたのは、原作以上に石田・西宮ふたりにフォーカスが絞られている点です。

原作では、石田がかつての西宮への行いを悔いていたり、西宮が自身の障害が原因で関わる人々を不幸にしていると感じているのと同様に、その他の登場人物にも各々コンプレックスや欠点が存在します。

それらを深く描写するためには原作で行った映画制作の流れが不可欠なのです。ですが劇場版ではそれをバッサリ省いているため、植野・佐原・川井・真柴(永束君は親友ポジなので置いておきつつ)などの掘り下げが成されていません。真柴など存在すら不要です。

各々の抱える問題が浮き彫りにならないため、それを乗り越えた後の成長までもがカットされてしまい、いまひとつ物足りなく感じられました。とはいえ、上映時間の縛りがあるため致し方ない面はあるでしょう。よくよく考えると、他に削れそうなところもない。

胸糞描写のマイルド化

女性陣がこんな派手にやらかして大丈夫なのかと面食らうほどインパクトのあった植野と西宮母のキャットファイトがかなりマイルドになっていたり、川井の腹黒、柴田の暗黒面の描写が軒並みカットされています。いずれもかなり印象深い場面です。

これらの場面は共通してリアルな人間関係を表現しているため、京都アニメーションの暖かみあるタッチ、あるいはせっかくフォーカスを狭めた石田と西宮の物語に水を差しかねないほどの生々しさを秘めています。そのことを危惧した結果、マイルド化やカットが成されたのかもしれません。

石田のモノローグ不足

かつての西宮への行為から自分を嫌悪していたり、贖罪や使命感から西宮のために何かをしようと自分に言い聞かせている石田の気持ちがやや伝わりにくかったように思いました。

自身が自己嫌悪していたからこそ、西宮が自分のことを嫌いだと知ってから「西宮に自分のことを好きになってほしい」と考えるようになり、事故後に意識を取り戻してから贖罪や使命感ではなく本心から西宮の側にいたいことを告白したわけです。

だからこその「生きることを手伝ってほしい」。ここに至るまでのプロセスがやや不足気味かなというのが率直なところ。

その他カットされて残念なシーン

ベタ褒め

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褒められて赤面したり唐突にパンの話題になって戸惑う西宮が見たかった。このパンもいいパンだ。

水着写メ

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意外とグラマーな西宮の健康的な水着姿が見たかった。

ネコ耳でにじり寄り石田を困惑させる植野

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シュールギャグとして秀逸なので、是非とも映像化して欲しかった。普通にネコ耳で割引券配っちゃってるじゃないですかー!シュール系は漫画だからこそ笑える面もあるので難しいだろうか。

まとめ

西宮、植野萌えが足りませんでした。

冗談はさておいて。尺の都合や表現のマイルド化を意識してのことか、結末に至る描写がやや不足しているように感じられたのが残念でした。

逆に言えば、原作とは異なる演出が多々あるので、そのことを意識しながら視聴するとあれこれ考えが膨らんで面白いという側面もあります。

京アニの美しいアニメーションだけでも一見の価値ありです。それでは。

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